�Kナゴロ山 (山集落発祥の地)
ナゴロ山には積石遺跡ががあり、先祖達が集落
の守護人として祀っていた。
後世になって広場はノロの祭場として巫女を中心
に集落をあげて祭りが盛んに行われていた。この
ナゴロ山の真下に当たる上の川(ウィンコ)、上の
当(ウィントゥ)が山集落の発祥であり聖域としてこ
の森上の方には屋敷を構えることは出来なかった。

場所:山集落から山幼稚園を通って山手
○【交】空港から約25分 港から約40分


�Mカンニンウシシギャ墓
徳之島町で現在も祀られている唯一のチンシ墓(積石墓)で墓場の歴史の流れを知る上で大変貴重なものである。チンシ墓は棺を土中に埋めないで砂や礫
(れき)で囲みさらにその周囲を石(琉球石灰岩)覆い
隠すという基本的な構造を持つが、まだ内部の構造ははっきり確認されていない。
墓場の歴史の流れの中ではこの区域の周辺に集中しているトゥル墓(洞穴墓)や土葬墓などの並び具合
から洞穴葬と土葬の中間に位置する葬法であったことが考えられる。ちなみにカンニンウシシギャは琉球王朝時代カンニン(神之嶺)に君臨したムラオサ(按じ)で、人徳の秀でた武芸者として現在に語り継がれている。当墓の東方約200�bには、ウシシギャデラ(集落の守護寺)がある。

場所:神之嶺小学校近くの林の中
○空港から約45分 港から約20分
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No.391560501










�B諸田池
薩摩藩の新田開発の奨励にのっとって寛文10年
(1670)代官伊地知筑右衛門の時に竣工した道の島(大島郡)では最初に施行された大事業であった
水面面積三町八反余の広さもあり、この貯水によって40町歩の田地が開発された。

場所:徳之島町諸田
◎【交】空港から約35分 港から約10分
�F嶺山嶺文翁頌徳碑
明治の地租改正に際し、花徳周囲の山を集落共有林としして確保し、また水利工事に卓越した指導性を発揮、自らトンネルを掘り水利を公益に供し、その他農具の改良等郷土の産業に大きな功績を残した。その徳をたたえ昭和52年8月建立された。
(1843年〜1943年)

場所:花徳(東天城中学校前)
◎【交】空港から約25分 港から約30分
�E母間線刻石群
第一から第四の石があり、第一の石には頂上部に矢らしき物等が掘られ、第二の石には線刻画があると言う伝承があるにいもかかわらず未だに線刻画らしきものが見つかっていない。
第三の石には階段状の祭壇らしき部分があり、第四の石には意味のはっきりしない*と言う線刻が掘rられています。
この一帯は古くは母間を治めるノロ(祭政一致時代の女性司祭)の所有地であったと伝えられ、第三、第四の石は現在もノロの末裔の手で祀られています
古い時代には全島のノロ達が集まって第三、第四の石の前で豊年祈願の祭りがなされたと言う伝承もあり、ノロ祭祀と深く関わったされています。
しかし何時ごろ線刻画が掘られたかについては、伝承がなくはっきりしない。

場所:徳之島町母間(ハンターより山手に上がる)
○【交】空港から約30分 港から約30分
�@慰霊碑
第二次世界大戦の終わり頃、亀徳沖で魚雷によって撃沈された、富山丸の3000余名の霊を慰める慰霊碑や、平和祈願の碑、学童疎開船武洲丸遭難者の碑などが建立され、周辺は「なごみの岬公園」として整備されています。
今では全国から集まってくる人々で定期的に慰霊祭も行われている。

場所:徳之島町亀徳
◎【交】空港から約45分 港から約5分

�Iアジ墓

琉球服属時代、掟(今の区長)役であった大八の墓である掟大八目の 「目」はヤクムィー(兄)の意味であると思われる。大八の墓の周囲に大八を守るように六つの家来の墓がありこれを総称してアジ墓といっている。
古来この墓地は神高い所として関係者以外は立ち入らない場所とされている。

場所:徳之島町手々(共同墓地)
○【交】空港から約15分 港から約45分
�H掟大八の力石
掟大八とは琉球王朝時代に手々に住んでいた豪傑のことである。「徳之島小史」によれば大八は築城の術に秀れていたために、琉球王に招かれて築城にたずさわりその勲功によゅて唐焼の酒器を褒美に頂いて帰島したという。
その後王の命によって大島諸鈍城攻略にも参加して手柄えお立てたが無念な戦死を遂げた。この力石は大八が力試しにもちいた物であると伝えられている。
重量は800斤(480�s)といわれている。

場所:徳之島町手々(集落内)
◎【交】空港から約15分 港から約45分
�G菅原神社
藩政時代の石信仰が明治3年の廃仏棄釈により廃止され,、花徳の林貞起氏が菅原道真公の心霊をお供えして祭り菅原神社と改称して以来、高校や大学受験の合格を祈願し参拝するほか、春秋の彼岸に氏神として村人が祭る

場所:徳之島町花徳スリバチ山頂上
◎【交】空港から約25分 港から約30分
�D殉職警察官慰霊碑
昭和22年6月21日警察の警備船鵜徳丸は徳之島沿岸海上において不審船の捜索中、突然母間沖で機関に故障を起こし折からの強風と潮流に流され危険を感じた船長は沿岸漁民に急を告げようと乗組員から連絡役をを募ったところ、三警察官がその大役を引き受け板付け船で勇躍槽を出したが不幸にして突風に転覆、船もろとも海中に沈み官民あげて行われた連日の捜索にもかかわらず一片の遺品すら発見されなかった。
笠利町佐仁   宮崎伝熊 (22歳)
徳之島町花徳 熊元知二 (19歳)

天城町兼久   盛 昌介 (19歳)
三人の功績を末永く讃えるため25年後の昭和40年3月建立された。

場所:徳之島町母間(池間公園)
◎【交】空港から約20分 港から約20分

�Cイノヌ(井之川の)イビガナシ
イビガナシは、昔海から石に乗って神様が来たと言う伝説に基づいて建てられた神社で、神様が乗ってきたという石がご神体として祭られています。祭りは彼岸の中日ですが、明治時代には泊りがけで、祭りを行っていたいたということです。航海の安全、安産無病息災(特に天然痘)などに霊験があったと伝えられています。
洞穴には貝をご神体とするキボウジガナシが祭られており、さらに岩陰には古い時代の洞穴墓(トゥール墓、遺骨が認められる)の跡も確認されています。
この辺一帯は古い時代から近世にかけての信仰の移りを知る上でも重要なところです。

場所:徳之島町井之川(海岸近く)
○【交】空港から約30分 港から約10分
�Aシキントウ墓
石の坐像の安置されている墓として古くから地域の人たちに尊崇されてる。ここには次の人達が葬られている。

伊地知重張(1645〜1692)
鹿児島県史によると伊地知」重張は名僧とい言れた文史玄昌の流れをくむ儒学者竹内益祐の門下で文武両道に優れその博識は遠く江戸にも知ていたと言う。   (1692年)文書採集のため徳之島に来島していた折にこの地で47歳で客死した。

法元太郎左衛門

徳之島前録帳によると1769年に徳之島代官所の見聞役(いまの警察署長と裁判官を兼ねたような役職)として来島したが1775年亀津において御死法と記されている。
もう一基墓石が建っているが詳しい事が分からない。

場所:徳之島町諸田(諸田池山手)
○【交】空港から約35分 港から約10分






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