1926  昭和元年 山・花徳間県道完成。徳之島分署が徳之島警察署に昇格。
1928    3年 自動車(ハイヤー)を運行 亀津〜山
1929    4年 母間・山小に初の鉄筋コンクリート二階建て校舎完成。
1933    8年 トラック移入。
1941   16年  12月亀津村を亀津町に改める。
1946    21年  2月日本国土と行政分離、米軍政下におかれる。
1948   23年 母間小に東天城村第一中学校、山小に第二中学校併設開校
1949   24年 徳之島高等学校創立。
1950   25年 花徳で徳洲オリンピック大会開く
1951   26年 母間小に併設されていた中学校が母間中と花徳中に独立
1952   27年 定期バス開通。 11月徳之島で初の大相撲を開く。
1953   28年 日本行政下に返還され,再び東天城村,亀津町として県政下に加わる
1954   29年 奄美群島復興特別措置法公布。 大島パイン設立。
1955   30年 高千穂丸」就航。亀徳橋、井ノ川橋、山田橋(手々)完成。
1956   31年 亀徳港湾埋め立て工事着手。 奄美パイン設立。
1957   32年 神之嶺小と井之川小が統合して神之嶺小となる。
1958   33年 亀津町と東天城村が合併、徳之島町になる。驫木、母間ダム着工。
花徳中学校と母間中学校が統合、東天城中学校発足。林道花徳線開通
1959   34年  亀徳港岸壁完成。「高千穂丸」初接岸。「興南丸」就航
1960   35年 島内循環道路が完成。この頃からプロパンガス、ラジオ、電気洗濯機」がブームに。大和製糖が花徳に、太洋殖産が徳和瀬に製糖工場を開設。
1961   36年 亀徳埋立完成。亀徳小校舎落成。義宮殿下来島。亀津中学校井之川分校が井之川中に昇格。 「八坂丸」就航。
西 暦   年 号        お も な で こ ご と
 699 文武天皇3年 7月徳之島(度感)はじめて大和朝廷と通じる
1264 弘長  3年 徳之島第一島主 「首里の主」 来島。琉球統治下にはいる。
1616 元和  2年 薩摩藩の奉行役所が亀津に置かれた。
1816 文化13年
母間騒動起こる。
1830 文政13年 三島法執行される (黒糖総買い上げ実施、金銭通用停止)
1869 明治 2年 高千穂神社を建立。
1872     5年 安住寺跡で徳之島の学校教育始まる。
1873    6年 3月大蔵省から砂糖売買自由勝手許される。
1876    9年 散髪、服装、脱刀などが自由になる (亀津断髪の始まり)
1878    11年  亀津に教員養成所設立。亀津及び東天城郵便局開局。
1879    12年  山港開港「ユーコー丸」寄港。
1888    21年 東天城村役場を山に設置。
1891    24年 定期航路開かれる。
1908    41年 東天城村が天城村に吸収合併。 亀津に初の青年団結成。
1913 大正 3年 亀津・平土野間に県道開設。
1915    5年 5月、東天城村が天城村から分散独立、山に役場設置。
1919    8年 花徳郵便局開局、亀津大火災(被害総額32万円)
1923    12年
電灯がともる。
1924    13年 東天城村役場を山から花徳へ移転。 母間郵便局開局。
1925    14年 花徳に県蚕業模範
徳之島町の出来事
(1)琉球王統治のころ
   
  徳之島の名が始めて史書に現れたのは、文武天皇3年(699年)で度感(徳之島)はじめて大和朝廷と通じたとされます。
本長が行政区域の一つとして統轄されたのは、弘長3年(1263年)に琉球北山王から派遣された「首里の主」来島以降あるとするのが通説になっています。
徳之島は三つの間切 (東間切、面縄間切、西目間切) に役所がおかれ、行政がが行われました。 この三つの間切のうち、東間切が今日の徳之島の前身といえます。

(2)薩摩藩政のころ

  慶長14年(1609年)に薩摩藩が琉球を征服し、奄美群島もその統治下に入りました。徳之島は3間切、6あつかいの行政単位に分割され各ああつかいは与人以下の島役人によって治められその上に代官を中心とした藩庁出先役人が支配権の一切を握りました。
薩摩藩」の弾圧政策は、明治4年(1871) の廃藩置県を経て明治8年の戸長制が敷かれるまでの266年間、奄美を黒糖生産の奴隷的植民地として収奪をほしいままにしました。

3)明治から町発足まで 

  明治8年に藩政が廃止され、亀津に徳之島支庁が設置されて、民選の正副戸長によって行政事務が行われた。
明治21年徳之島の行政区画は四区に分けられ、連合村を組織して四ヶ所の戸長役場を設立して官選の戸長と若干の用掛をおき、各村には組世話人をおいて役場の事務えお補佐させました。
明治41年に全島を三か村 (亀津、天城、伊仙) に区画し、各村に官選の村長、収入役、学務委員、書記、技手、区長がおかれました。
 大正5年天城村が分割して新しく東天城村が発足し、徳之島は四か村になりました。
昭和16年に亀津村が町になり、第二次大戦も激戦となった昭和18年末には、大島支庁徳之島出張所が設けられました。
 昭和21年には本土と分離され、アメリカ軍政下に置かれました。 同年、第一次通貨切換えが行われ、また全郡市町村長、議員の初の公選が行われました。
 昭和28年日本行政下に返還され、再び東天城村、亀津町として県政下に加わりました。
昭和33年4月1日に東天城村と亀津町が合併して、徳之島町として発足、現在に至っています。
徳之島町の生い立ち
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