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秋利神風葬跡=昭和45年頃
平成22年1月29日(金)
風葬の変遷
奄美諸島の古代の葬制はだいたい琉球と同じく、その形式も変遷も共通している。古くは南島一帯に風葬が行われていたらしく、その遺跡を至る所に発見することが出来る。もっと広く調査すると、この風習はひとり南島にのみに限らず、遠く南洋諸島の土人から台湾生蕃の間にも行われており、また日本の古俗でもあったことは、ハウムル(葬る)という語がハフル(放棄する)から転じたもので、国語で葬送のことをフフリと言っているのでもわかる。
風葬にも幾段かの変遷があって、最初は死体をそのままもしくは蓆のようなもので包んで、居所を離れた山奥か藪陰か海浜に放棄して、風雨に曝したものである。風葬時代には死後幾日間かその家族や親戚が死者のところへ通ってその霊を慰めたらしく、今でも死後一週間ほど燈明や香花を持って死者の墓前に通うのはその遺風であろう。
琉球の津堅島(そこでは45年前まで風葬が行われていた)では、、人が死ぬと蓆で包んで後生山と称する藪の中に放ったが、その家族や親戚朋友が屍が腐敗して臭気が出るまで毎日のように後生山を訪れて、死人の顔を覗いて帰るのであった。 死人がもし若い者である場合には生前の遊び仲間の青年男女が毎晩のように酒肴や楽器を携えてこれを訪れ、一人一人死人の顔を覗いた後で、思う存分に踊り狂ってその霊を慰めたそうである。
徳之島でも近年まで埋葬の時、死者の墓前で酒盛りして歌舞音楽にふける風習があった。
その後だんだん人間が増えて集団生活をするようになってから、風葬の場所も一定するようになった。同時に太陽崇拝の念から、死体を日光にあてるのは不浄の罪になると考えて、死体を自然の岩屋や洞窟、横穴に放棄する二期の風葬に移った。その中には白骨が累々と積み重なっている。土地の人は昔の戦死者の遺骨を収容した所だとか異国船来寇の時、土民の隠れた所だとか言っているが、よく調べてみると風葬時代の遺物である。                        【参考文献】:奄美今昔よもやま話

伊仙町中山洞穴墓=平成20年