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第47回富山丸慰霊祭で手を合わせる遺族=14日、なごみの岬公園
平成22年4月15日(木)
火の海に没した 尊い犠牲を忘れない
富山丸戦没者慰霊祭」 遺族131人が参列
太平洋戦争中の1944年6月29日、兵力増強のため沖縄へ南下中、徳之島町亀徳沖で米潜水艦に撃沈された輸送船「富山丸」(7089トン)の第47回戦没者慰霊祭が14日、同町なごみの岬公園の慰霊碑前で厳かに行われた。 遺族会の参拝団一行131人と地元関係者や亀徳小児童(21名)、神之嶺小児童(17名)が参列。3724人の犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。
慰霊祭は黙祷のあと、徳之島混声合唱団が「いのちの歌」「千の風になって」を合唱。 参拝団最高齢者の時任ノリさん(鹿児島県)の開会の辞に続いて、高岡徳之島町長が哀悼の言葉を述べ、生存者の1人、故三角光雄氏の生々しい手記を宮崎県遺族会の松本隆佳氏が朗読。 献花の後、参加者全員で「ふるさと」を合唱、み霊の平安を祈った。

 
【写真特集】
慰霊塔に刻まれた富山丸の船影 階段の上に見えるのが慰霊塔。両側は名前を刻んだ「なごみの碑」
黙祷を捧げる遺族参拝団 徳之島混声団の鎮魂の合唱
開会の辞を述べる最高齢の時任ノブさん(95) 故三角光雄氏の手記を朗読する松本隆佳氏
献花をする亀徳小学校児童

水野 修著 七島灘を越えて -太平洋戦争と奄美の人々- より転写
炎の海に消えた3700人
 沖縄本島へ送り込まれる将兵約四千人と糧食やガソリンなどの軍需物資を満載した八千トン級の大型輸送船〃富山丸〃が、亀徳港の四キロ沖合で敵国潜水艦の魚雷攻撃を受け轟沈したのは、昭和十九年六月二十九日午前七時二十分過ぎであった。
 島の天空が裂けたのではないかと思われるすさまじい爆発音と同時に、紅色の炎に染まった太い水柱が亀徳港の端に突き立ち、真二つに割れた富山丸の船体は、見る見るうちに沈んでしまった。それは、ほんの数分間の出来事だった。
 十隻の僚船がなすすべもなく、空しく汽笛を鳴らす中で、富山丸の船体は跡形もなく海底に消え、第四十四混成旅団将兵三千六百五十七人と船員六十七人、総員三千七百二十四人が、船と運命を共にした。
 魚雷攻撃を受けての沈没事故だとは言え、亀徳港のわずか四キロ沖合で、これだけ多くの犠牲者を出したのは、積み荷のガソリンに引火したのが最大の原因だった。それに、将兵たちは重い軍靴にゲートルを巻き、はいのうを背負った重装備のまま、船室にすし詰め状態にされていたらしい。陸上での緊急事態なら幸いしたであろうが、海上では反対に、その重装備が命とりとなった。
 その日、梅雨上がりの空には、真夏を告げる入道雲がわき立ち、その下に広がる亜熱帯の海は、豊かな陽光を浴びてエメラルド・ブルーの輝きを増していたが、この真夏を告げる光景は、一瞬のうちに黒煙に覆われ灰色の世界に変わった。富山丸の没した海域が、たちまち炎の海と化したのである。炎の切れ目から発生する黒煙は、海上を荒れ狂う竜巻のような勢いで上空を圧した。
 海上では、一千五百本のガソリンドラムに次々と引火したため、不気味な爆発音が続いている。爆発が起きるたびに、濃いオレンジ色の炎が八方に飛び散り、炎の海の広がる様子が陸地からもよく見えた。
 伊地知正二の父正吉は、家の裏手に屹立する標高四・五十メートルの海岸段丘上から、沖合の惨状を見ていた。事情がのみこめないま、駆け登って来た村びとたちの中には、この惨状を見るなり、腰を抜かして座りこみ、あるいは泣き叫び、恐怖のためにひざを震わす幼児や学童、婦女らもいた。
 正吉は、炎の海の広がる状態を見て、風向きが悪いと思った。普通、梅雨明けの時期には、〃荒南風(あらばえ)〃と呼ばれる南西からのやや強い風が吹いているのだが、この日に限って 逆方向から陸地に向けて吹いていた。この風向きは、岸辺へ向かって泳いでいるはずの遭難者たちの頭上に炎の海が襲いかかる事を予告していた。正吉は、漁師としての永年の経験からそれを直感したのだった。
 地元の消防団が仕立てた二トン級のハシケが、現場近くに接近したのは富山丸の水没後三十分ぐらいの時間が経過していた。
 現場では、正吉が予想した通りの惨劇が演じられていた。
 燃えたぎるうねりの中に焼け焦げた将兵の死体が黒い固まりの浮遊物となって浮き沈みしている。
 正吉たちの船にも炎の海をくぐり抜けた将兵たちが寄って来た。彼らは、かなりの重傷を負っていた。とくに、顔面や手足など衣服からはみ出していた部分の火傷がひどく、救い上げようと手を握りしめた途端手のひらが脱け落ちるのもいた。さらに、ある者は、鼻や唇が崩れ白骨化するほどまでに焼けただれていたが、正吉たちのハシケに気付いたらしく、片手を上げて救いを求めて来た。正吉たちは、四人掛かりで彼を船上に救い上げた。彼は、しきりに何かを話そうとしていたが、言葉にならない。耳を近づけるとようやく〃水〃と言っている事が分かった。正吉は水筒のふたに水を入れ、崩れかかった彼の唇を二、三回濡らしてやった。その瞬間、彼の顔に笑みが浮かんだようだった。しかし、それっきり彼の呼吸は止まってしまった。

 午前七時二十五分、魚雷が富山丸の船腹に命中した瞬間から燃え始め、一時は、陸地へも襲いかかって来るほどの猛威をふるっていた炎の海も、昼前に、ようやく静まった。
 その結果判明した事は、風下の岸辺に向かって泳いでいた兵士の大半が焼死し、それとは逆に、風上の外洋に逃れた兵士たちは、無傷のまま、僚船に救出されていた事実であった。そして 何よりも、積み荷のガソリンに引火した事と、重装備のまま、すし詰め状態でとじこめられていた事が、多くの兵隊を犠牲にした最大の原因であった。
 この日、亀徳港に収容された遺体は二百八柱であった。焼けただれた遺体から、彼らの生前の相貌を思い浮かべる事はほとんど出来なかったが、軍隊手帳や標識番号でそれぞれの身元は確認された。そして、それらの遺体は、消防団や防衛隊の協力によって、その日の夕刻、亀徳川河口の砂浜で一斉に火葬された。
 村びとたちの記憶によると、終夜、茶毘の炎が夜空を真っ赤に焦し、人体を焼く異臭が風に乗って十数キロ先の村々へも漂って行った。そして、島全体が深い悲しみに覆いつくされた、と言う。
 富山丸事件は、敵潜水艦への報復処置もとられず、日本側の一方的な損失のみが大きかった。
 富山丸事件は、島びとたちにとって、戦争への恐怖と空しさを知らされた初めての体験であった。

潮風85号 「徳之島案内」  編集主幹 水野 修