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渕上秀平軍曹=徳之島町亀津出身
平成25年2月2日(土)
 国外で活躍する徳之島ちゅ
徳之島出身者として初めて米海兵隊に入隊
紛争地アフガニスタンから無事帰国した渕上さん
 日本人として初めて米海兵隊に入隊し、世界で一番危険な紛争地アフガニスタンで7ヶ月間、生死を体験して無事帰還した渕上秀平軍曹(29歳)=渕上建設株式会社社長渕上平八郎氏の長男=の特別インタビューが牧野三佐男オレゴン大学特任教授 国際教育学博士から届いた。 
ロスアンゼルスで渕上さんのインタビューをした牧野教授は 「大学で日本の20歳代の若者と40年も接して来たが秀平君のような勇気と正義感に満ちた青年には会った事がない。その上すぐ映画俳優にでも使えるような好青年である」と話す。 渕上さんは現在アメリカの経営市場調査会社(taranscosmos, america: The marketingChain Management Company)nに勤務している。
 
 
 
【特別インタビュー寄稿】

 米海兵隊の入隊希望はいろいろとありますが・・・と前置きして次のように話をしてくれた。

   「僕は日本が大好きです。日本人にはテロ事件、テロリストへの危機感と言うもはピンとこないかも知れませんが、僕はテロとは世界中何時何処であるか分からないものだたと思っています。大好きな日本、そして大切な家族、親戚、親友、友人など皆を第一線で守りたいと考えました。自衛隊でも良かったのですが、テロリストを最前線で食い止めたい。僕一人の命で、何人、何十、何百人の人達の命、平和を一日、一分、一秒でも守れるなら最前線で戦い、この命をささげても良いと思ったからです。日本だけでなく戦地で苦しむ現地の人達の平和を守れるなら守ってあげたいと思いました。

僕の入隊希望は、日本への愛国心と忠実心そして家族愛から来ているものです。

海兵隊に入隊してから別の自分の気持ちに気ずきましたが、戦地に居るときは自分の部下、実の兄弟以上の絆を持つ同期を自分の命と引き換えにしてでも守りたい、生きて故郷へ帰したいという気持ちで戦っている事に気ずきました。この時,海兵隊に入隊したのは同期達との出会い一緒に家族、友人、そして世界平和に向け一緒に戦う為に入隊したのだと実感しました。

他にもいろいろと入隊の理由はありますが、今回は大きなものを二つ挙げさせていただきました。 

アフガニスタンには2011年2月22日から2011年9月29日まで居ました。 アフガニスタンへの派兵日に日本から母が来て,妻と子供二人に見送られました。最後の別れになるかもしれないと覚悟を決めバスの中から涙ぐむ母と妻、何も分からずはしゃぐ子供二人の姿を目に焼き付けて出発しました。その時、見送る家族を見るのはとても辛いものでした。 正義の為だと、生きてまた祖国日本、アメリカの地を二度と踏めないものと考えて派兵いたしました」

 

写真左より、綾香夫人、秀平さん、海斗君(5歳)、恵麗奈ちゃん(3歳)、牧野教授
 
海兵隊てどんな部隊?

アメリカ合衆国には1972年まで徴兵制度(Draft)があって男性は18歳になったら兵役に服す義務がありましたが1973年から志願制度(Voluntary service)に変わりました。海兵隊は18歳から28歳まで志願して入隊することができ4年間海兵隊として活動に就く事になる。
海兵隊は、戦争、紛争、災害など危機状況が発生すると、ヘリや水陸両用艦でいち早く現場に到着し、陣地を確保しながら陸海空の作戦を支え、民間人を救出する。現在総兵員数は約18万7000人。ほ かに予備役が約10万4000人いる。3つの「海兵遠征軍(MEF)に分かれ、第一MEFが西部カリフオルニア州、第二MEFが東部ノースカロライナ州、第三MEFが沖縄県にそれぞれ司令部がある。海兵隊は独立戦争中の1775年に発足した。第2次世界大戦では、グアム、サイパンなど太平洋諸島での日本との戦闘で中心的な役割を果たした。
1945年2月、硫黄島の摺鉢山に海兵隊員が星条旗を打ち立てた写真は優れた報道に贈られるピュリツアー賞を受け,その激戦を渡辺謙主演で映画化もされ記憶に新しい。
 
【秀平さんの経歴】
 僕は忘れもしない、20071217日にアメリカ合衆国海兵隊へ入隊し、San DiegoにあるMCRD San Diago(Marine Corps Recurit Training Depot/海兵隊新兵基礎訓練所)へと足を踏み入れました。今思えば、この日から僕の人生は変わり、今まで僕の知っていた世界はこの日を最後に終わりを告げました。基礎訓練中は人間扱いはされず、体力的、精神的にも追い詰められそして、鍛えられて20082月に基礎訓練を終え海兵隊の称号をもらい晴れて、合衆国海兵隊員になりました。基礎訓練後は10日間の休暇をもらい、10日後には歩兵の仕事を選んだ者は2ヶ月の海兵隊歩兵兵学校へ入校する事になります。歩兵ではなく後方職(補給、エンジェニア、無線など)は4週間の基礎歩兵術を学ぶ学校へ行き、そこからそれぞれの職業学校へと進む。職業学校にもよるが、約2ヶ月から1年かかることもある。
 
海兵隊歩兵兵学校では、基礎の歩兵術を学ぶ。基礎とは言え、最先端の戦争での生き抜き方から戦い方を学ぶ。ここで初めて歩兵の厳しさ、他の後方職の海兵との違いを知りより一層、海兵隊歩兵としての誇りが湧きました。海兵隊歩兵学校を卒業しそれぞれの部隊へと配属されます。クラスの大半は皆、同じ部隊へと配属されるがごく少数は別の部隊へと配属される。僕を含め、大半の海兵隊員達はNCのジャクソンビルにある海兵隊基地キャンプ レジュン(Camp Lejeune)、第二海兵師団第二海兵連隊第三大隊へと配属された。ここからは学校の生徒ではない本物の海兵隊員として、勤務する事になる。
 
一番最初の派兵は、2009年にヨーロッパ、中東に駐在する世界の911(110)緊急対応できる部隊として海軍の船(空母)に乗り出動。ヨーロッパを転々とし、最終的にはクエートへ駐在。2010年にハイチでの大地震などで緊急出動要請があり、NCから72時間以内に現地へ急行しました。(部隊は出動しましたが僕は娘が生まれる為、出動できず。。。)
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二回目の派兵は、アフガニスタンへ派兵、白熱の太陽、砂漠、エアコンもない生活が続く。厳しいスケジュールや仲間が消えていく中、戦争の本当の姿を知る。201110月に戦争から無事帰ってくる。
 
晴れて、2012710日に長かったような、短かったような4年半の海兵隊員の生活が終わる。今まで生きている中で一番、輝き、命がけで人生を駆け巡った4年半でした。海兵隊で出会った同期達、本当の家族よりもっと絆が深くなった兄弟達に出会えた4年半でした。生きて帰ってくる事が出来なかった同期もいますが決して忘れる事はないでしょう。
 
下記に簡単な流れを作成しましたので参考にしてください。
 
海兵隊入隊式→3ヶ月、海兵隊新兵基礎訓練所(西海岸沿い出身の者はSan Degoの訓練所へ、東海岸出身の者はSouth Carolinaの訓練所へ)→2ヶ月、海兵隊歩兵兵学校へ(後方職の者は1ヶ月の歩兵術を学んだ後、それぞれの職業学校へ)→部隊配属(西海岸で訓練をくけた者はほとんどの確率で西海岸、またはハワイなどに配属される。東海岸の者は東海岸、またはハワイなどに配属される)→約1年訓練をし、派兵する(歩兵の場合)→契約終了まで厳しい業務を続ける。

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