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平成25年7月24日(水)
 
祖母達の戦後史 「浅間マツリ・談義」

天城町浅間、芝いんださん(昭和56年 当時:89

夏の訪れ、マツリの季節が始まる

七月の豆や

 粟と さねくろしゅん

あたら七月や新冬(ふゆ)なたん

        「七月踊り歌」

シュキマ(初穂儀礼)が終わると集落のあちらこちらで太鼓(チヂン)の音が響く。マツリの季節の始まりだ。季節の折目を迎え、新穀を混ぜて炊いたご飯を腹いっぱい食べて人間の魂も新しくなり、自然と気分も浮き立ってくる。手舞い足舞い、心が躍る。

「浜下り」行事は、夏祭りの中でも最大のイベントだ。浅間でも集落の前の浜に六つのヤドリを組み、湾屋()、福真(松岡)、ナガヤ(芝・碇本・仁木・禎)、大久柵(太・柏井)の一族が、それぞれ集まって先祖を祀るとともに作物の豊穣を祈願した。浅間の元気な祖母、芝いんださんは、自分の一族であるナガヤがいちばん古い家柄であると胸を張る。

 幼かった頃のいんださんは、この「浜下り」が楽しみでならなかった。前の晩は、カマックワァ(ほうせん花)の赤い花を石でよく潰して爪に載せ、木の葉で包んで紐で縛り床に就く。翌朝になれば、きれにマニュキアされているというしだい。

 そして、着物から草履まですべて新品を身に付け、虹色に輝くガラス球の首飾りを下げ、親に作ってもらった竹笛(浜下り笛)をピーピー鳴らしながら、晴れがましい気分で浜へ下りた。

 一重一瓶も当時は、家族全員分用意した。だから、子どもは子ども同士で杯をやりとりしたり食べ物を交換したりしたそうだ。さぞ得意げに大人ぶって応対したことだろう。

 この日は午前中、浜で闘牛をおこない、昼からは相撲と踊りで終日楽しんだ。


八月十五夜の綱引き

 「浜下り」が終わると、すぐに八月十五夜が控えている。これが子どもたちにとっては、まあ楽しい。いんださんも指折り数えて、この日を待った。

 秋の澄んだ夜空で、ウジキガナシ(お月さま)がしだいに丸くなり始めると、各家から稲わらを集め、綱の準備に取り掛かる。そして、十三夜、集落の男たちが総出で大綱を編む。

 こうなると、子どもたちの小さな胸は、マツリへの期待でいっぱいになった。用もないのに綱の側(そば)へ寄り、集まって遊んだ。

 当日は昼間、湾屋川の上流で「うしとろし」(闘牛)を楽しみ、夕方、その場で子どもたちに綱を引かせた。本番の「十五夜綱引き」は、満月が中空に上り、真昼のような光を放つ時刻におこなわれた。

 集落を前と後ろに分け、長い綱を引き合った。とても綱が長かったので、橋を木に結んでおいても気が付かなったほどだという。

また、この綱引きは、たんなるレクリエーションではなく、農耕の予祝儀礼である。だから、みんな真剣に引き合った。しかし、前が勝てば不作、後が勝てば豊作と言い伝えられているので、幾度か引き合った後、最終回は、後が勝つようにした。

十五夜行事には、やはり綱引きの他に相撲と踊りが伴った。「浜下り」のとき新生児の「ニーバマクマシ(新浜踏まし)」があるように、この日は、男の子の“初土俵入り”がおこなわれた。元気に逞しく育ってほしいという親の願いが込められているのだろう。

踊りのときも新生児たちは主役だ。男の子は白、女の子は赤の鉢巻を締めて祖母や母親の背や腕の中で踊った。

 

盛んだった”うしとろし” (闘牛)

さて、マツリに付きものだった「牛とろし」。浅間は、この闘牛で有名な集落だ。戦前は、湾屋川の河原で全島闘牛大会が毎年のように催され、近隣の村々から見物客が弁当を腰に下げ、雲霞(うんか)のごとく寄り集まったという。

芝いださんの父、禎禎玄は広い田畑を耕やす一方、牛馬の取引きも手掛けていた。島内各地から肉用牛を買い集め、山港から神戸へ向け積み出すのが主な仕事だった。

集落には禎玄のほか二人の博労がおり、いずれ手広く商っていたようだ。つまり浅間が闘牛のメッカと言われたのも.こうした事情が少なからず影響を与えていたからであろう。当時の牛なぐみ” (闘牛)は、五月五日・九月九日の中の節句と「浜下り」、そして、八月十五夜の行事の一つとしておこなわれた。会場は、浜下りのときを除いて、ほとんど湾屋川の上流であった。

昔の闘牛は、集落の分限者(資産家)同士が、一族の名誉をかけておこなうもので、各集落に闘牛用の牛は多くても四,五頭しかいなかった。その対戦風景は、川の中ほどで両牛がにらみ合い、勢子(せこ)もフンドシ一つになって鼻綱を取り、水しぶきをあげながら闘わせるというものだった。

現在と異なるのは、柵がないので鼻綱を最後まで切らないことだ。それで、決着がつくまでに二、三時間かかることも珍しくなかった。引き分けの勝負も多かったという。

とくに真夏の炎天下でおこなうときは牛の動きも鈍るので、周りから一生懸命水を掛けたものだという。また、見物人も、別に木戸銭を払っているわけでもないので、のんびりと決着がつくまで見守っていたらしい。

 

大正から昭和にかけて流行った農耕牛の競技大会

闘牛の他にも、浅間では、牛の競技会が大正から昭和初めにかけておこなわれていた。農耕牛に鋤(すき)を付けて、畑を起こすスピードや作業の丹念さを競ったのである。つまり日頃の仕事ぶりが、すぐ競技結果に表れるので励みになり、農業振興のためにも、すいぶん貢献したという。

この日は、闘牛以上の熱心さで周辺の人々が集まり、一族から出場する牛に刈ってきた青草や貴重品であった卵を食べさせ、競技では太鼓(チヂン)を打ち鳴らして熱狂的な声援を送った。

当時は全郡大会まであり、浅間からも出場したとのこと。天城の地区大会は、岡前田袋(タブク)でおこなわれたらしい。

こうした土地柄で生まれ育ったいんださんは、大のマツリ好きだ。毎日、汗を流して働き、こうしたマツリの日には、思いっきり楽しむのだという。先月、鈴木善幸首相が来島した折(昭和569)には、地区の人たちと空港へ行き、八月踊りで出迎えた。

マツリ日になって気分が高まると心が躍り、身体もつられて踊り出す。すると、つらかったこと悲しかったことも、すっかり解けて汗と一緒に流れてしまうという。

 

一人前の女性としての証  ハンジキ(針突き)

 にこやかに庭先で昔の思い出を語ってくれた芝いんださん。膝の上に置いた手には、青インクの染みのようなものがあった。何かの模様にも見える。尋ねてみると、ハンジキ(入れ墨)であるという。

 もうすっかり廃()れてしまったが、いんださんの娘時代には、島の女性は、みな手にハンジキ(針突き)をしていたものだという。

 これは入れ墨の一種で、手の甲から指先にかけて幾何学模様を彫り込む。南西諸島では、広くおこなわれていた風習で、地域ごとに模様が異なる。徳之島では、槍型や松型が多かったらしい。

 少女時代のいんださんは、年長の女性たちのハンジキを見て、うらやましくてならなかった。というのも当時、「ハンジキは、命まじり(命と引き換えてもよい)」とまで言われ、一人前の女性としての証であったからだ。他の地域では、「恋は命まじりだが、ハンジキは、あの世まじりだ」とまで言われていた。たんなる装飾ではなく、島の民俗的思惟に深く根差した風習であったらしい。

 徳之島町徳和瀬のMさん(当時:91歳・女性)の話によると、「魔除けではないか」とのこと。Mさんの父はイザリ(夜の環礁内でおこなう漁)の名人であったが、腕にトギャ()のハンジキをしていた。トギャは、海の魔物から身を守るための武器でもあったからだ。いんださんが地面に描いてくれたハンジキのかたちも、三叉銛に酷似するものだった。

 また女性のハンジキに関する他の説では、人生を終えてあの世へいったとき、先祖たちが、その模様を見て自分の子孫かどうか判断したためだとも言われている。

 そんなハンジキであったが、本格的に施すには、米が三斗も必要だったし、いんださんの頃には、もう絶対にしなければならないものでもなくなっていた。

 そこで若い娘であったいんださんたちは、蘇鉄のトゲと草の実の汁で、互いにハンジキを施したそうだ。むろん遊びの範疇ではあったが、その痛さに耐えてまで、一人前の女性として認められることを望んだのであろう。思春期を迎えた少女の心情は、今も昔も変わらないようだ。

 いんださんは手の甲のハンジキを見せてくれた後、「昔のいたずらさ」と、恥ずかしそうに手を引っ込めた。


榊原洋史氏 (愛知在住)が昭和5610月、天城町浅間で取材


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