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田袋吉三さん 
 アメリカ軍が撮影したキノコ雲  広島 原爆ドーム
   
平成25年8月9日(金)
 原爆投下から68年目
 被爆した奄美出身者たち    =徳之島在住被爆者24名

 1945日の朝。朝礼を終え仕事場へ向かう途中、田袋吉三さん(徳之島町母間)は、空を見上げた。雲一つない夏の青空が広がっていた。 ここは、広島市の中心部から47キロ離れた江波町。田袋さんは、三菱重工業の造船所、人間魚雷『回天』の組み立て工場で働いていた。『回天』とは、敵の艦船に海中から密かに近づき、体当たりして自爆する特攻兵器である。
 当時、まだ19歳であったが、工場付属の造船学校で補助指導員として30名ほどの生徒を預かっていた。
 「今日も暑くなりそうだ」
 そんなことを思いつつ、足を踏み出そうとしたとたん、パッと閃光が走った。
「空襲だ!」
 とっさに近くの防空壕へ、皆と一緒に飛び込む。
 しばらくして、様子を見ようと豪から這い出した瞬間、轟音とともに目の前の工場の屋根が吹き飛び、周囲が真っ暗となった。反射的に地に伏せた。
「もうこれで自分の命も終わりか」
 親の顔や過去の思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 
 30分ほどして少し明るさが戻ったので、周囲を見渡した。
 あちらこちらから火の手が上がっている。
 生徒たちの安否を確かめているうちに午後となった。

 
 近くの川へ出た。
 焼け爛れて男女の区別もつかない丸裸の死体が川面を埋め尽くし、ゆっくり流れていく。
道端にも、焼け焦げた死体が転がっていた。
この日の朝、用事で広島市街地へ出かけていた徳之島町山出身のOさんは、ついに帰ってこなかった。

 戦時中、奄美からも徴用や学徒動員または出稼ぎで多くの人々が長崎や広島へ出向き、軍需工場で働いていた。よって、奄美出身者も少なからず被爆したが、その事実は、あまり知られていない。

 田袋さんは昭和56年、鹿児島県原爆被爆者福祉協議会徳之島支部を発足させた。その名簿によると、徳之島在住者での被爆者は、24名。奄美全体で148名である。島外在住者と死者を含めれば、この数倍に達するであろう。 

 榊原洋史
 
 田袋さん(86)は、平成21年秋、農業への功績により黄綬褒章を授与。 現在、(有)母間衛生社会長、徳之島柑橘組合 組合長、徳之島商工会会長、きばらんと会会長などを歴任している。

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