若き兵士たちが島から飛び立っていった
道端の特攻花のひそやかに咲きて 虚空にくれなゐ放つ
『黒潮』前田磯子
天城町浅間の空港周辺に夏が訪れると野菊のような花が咲き乱れる。地元の人々は、それを「特攻花」と呼ぶ。若き特攻隊員たちが飛び立つ前に、形見として播いていったと語り継がれているからだ。
昭和19年、太平洋戦争は末期を迎えていた。戦線がジリジリと後退していき沖縄が戦場となると、追い詰められた日本軍は、徳之島の陸車空港近くに秋山特攻基地を設けた。知覧基地から飛来し、最終決戦場となった沖縄へと向う特攻機の最前線基地として――。
特攻機は夕闇にまぎれて着陸し、しばしの間、翼を休め、再び陽が昇る前に飛び立っていく。そのわずかな憩いのひとときを特攻隊員たちが過ごしたのが、平土野の旅館『多賀屋』であった。
『多賀屋』は、港町の商人宿として本土からくる客たちでに賑わっていた。ところが昭和17年、火災に遭い全焼。そして、やっとの思いで再建したところ、今度は海軍の宿泊施設として徴用されたのだ。
その当時40歳代前半であった女主人、神田タカさん(昭和58年当時:75歳)は、若き兵士たちが今生の別れにと書き残した宿帳を大切に保存している。
飛行兵たちは、夕カさんに自らの母親の思影を重ね、温かいもてなしに感謝した。
「おばさんありがとう。行くときは、この家の上を飛ぶからね」
まだ二十歳にもなっていないのであろう。童顔の若者は、微笑みを浮かべ約束した。
タカさんは、水平線がほのかに明るんだ空を見上げる。
一機のゼロ戦が爆音とともに現れ、低空飛行で旋回し、翼を左右に振った。
「さようなら!お元気で」
そんな別れの声が聞こえてくるようだった。
その年の秋から徳之島へも米軍の空襲が始まった。翌昭和20年となると、沖縄の慶良間上陸作戦と合わせて、特攻機の最前線基地を叩き潰すため、爆撃機が飛来して島の上空を覆い、さらに激しい爆撃を連日のようにおこなった。とくに松原から平土野へかけては、地形が変わるほど、爆弾を撒き散らしていった。
人々は、三京山へ逃げた。タカさんも若者たちの思いが綴られた宿帳を腹に巻きつけて家を離れた。
やがて梅雨に入りスモモが実る頃、ゴーン、ゴーンという不気味で重厚な音が海の向こうから聞こえてくようになった。どうやら沖縄本島へ撃ち込まれる艦砲射撃の音らしい。それが徳之島にまで響き渡って、三京の山々を揺らした。
その恐怖に耐えながら、タカさんは沖縄へ向かっていった若き飛行兵たち一人ひとりの顔を思い浮かべた。
「まだ子どもと言ってもいいくらいだったのに……」
手が震え、悔し涙が流れる。
タカさんが手にしている宿帳には、若者たちの末期(まつご)の思いが墨痕鮮やかに記されていた。
●武夫は恋には死なじ 空爆の炎となり 身をば捧げん
特攻隊 湊川隊 海軍中尉 藤田春男
●語学ニ希望ヲ 持タレド
古憲分 高山軍曹
●徳之島 飛び交う度に思ふのは 吾をもてなし その人かにと
昭和二十年二月五日 第九 飛川隊
●僅か一夜でしたが 忘れえぬ多賀屋と相成り候
確かにトクの島でした 頑張りマス
「特攻花」は、「天人菊」とも言われる。その名のとおり彼らは沖縄の空に散り、「天の人」となった。
ちなみに当時の空港は、軍の前線補給基地として昭和18年1月末から敷設作業を開始。全島から2280名の人夫が駆り出され、島外からも大量の資材や労働力が投入された。翌19年6月に完成。
現在地は、湾屋給食センターにあたりから北中、「平和の森」にかけての一帯。その滑走路跡が浅間の平和通りとなっている。昭和50年、特攻・平和慰霊碑が同地に建立された。
(榊原洋史・記)
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