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栄山めとさん(昭和56年当時、83歳)は、生まれも育ちも伊仙町上晴集落。齢は取っていても少しも老けた感じはなく、60歳くらいにしか見えない。畑仕事も、まだまだ現役だ。 朝5時には起きてラジオ体操で身体をほぐし、畑へいって鍬を振り上げる。そして、夕方になったら、ゲートボールの練習で、集落の仲間たちと楽しいひとときを過ごす。 めとさんの自慢は、このゲートボールを早くから覚え、奄美農業センターで催された第1回大会に参加したことだ。また、昨年(昭和55年)、沖永良部で開催された第8回南三島老人ゲートボール大会にも選手として参加し、おおいに活躍した。 上晴の老人クラブは、集落が他の地区と離れていることもあってか比較的まとまりが良く、ゲートボール以外でも毎日1回は集まって唄や踊りの練習を欠かさず続けている。 最近は、「戦友」を習っているとのことで、 〽ここはお国を何百里…… と、機嫌よく一曲披露してくれた。 歌は、めとさんの得意課目で昨年の夏、崎晴集落主催の「素人のど自慢大会」に出場して、「島育ち」を歌い、入賞した。めとさんは嬉しくて、賞品としてもらった米俵(30キロ)を頭に載せて、踊りながら自分の集落へ帰ったという。(幼い頃から毎日、重い水桶を頭に載せて運んでいたので、こんなこともできたらしい!水桶の重さは、18~27キロにもなる) このように天真爛漫なめとさんであるが、その歩んできた道のりは、けしてなだらかなものではなかった。 子守り奉公と機織り めとさんは、尋常小学校(4年制)を卒業した後、しばらく家の手伝いをしていたが14歳のとき、近くの河地集落へ子守り奉公に出された。 そこでの生活は、毎朝の水汲みから始まって炊事の手伝い、学校への送り迎え、子守りなど休む間もないほどの忙しい毎日だった。しかし、当時は、それが普通であったし、めとさん自身も若かったので、つらいと思ったことは一度もなかったという。ただ親元を離れている寂しさだけはぬぐえなかった……。 バシャは糸芭蕉を切り倒し、大鍋で煮て繊維を取り出し糸につむぐところまで、すべて自分の手でおこなった。 そして、この糸をジバタに掛けて布に織り上げるのだが、足の指まで使う全身作業で、大変な重労働であった。しかし、自分が身に付けるものだったので、きつさよりも喜びの方が勝った。 篠巻(しのまき)と機(はた)と主と三人(ミチャイ) こんな正月唄を聴いたり歌ったりすると、いつもこの頃のことを思い出すと言う。 この機織りは、奉公先から家へ戻っても楽しい仕事の一つとなった。 当時は、まだアシビンドゥ(遊び処:集会所)があり、結婚前の娘たちは夜になると、ここに集まって糸繰り作業などをおこなった。 そこには、集落のニセ(若者)たちが三味線(サミシル)を抱えて遊びにやってくる。 作業場の娘たちの耳に庭先からサミシルの爪弾きと張りのある唄声が聞こえてくる。 〽エエッ~ アシビンドゥのマナ(真中)にマダマ(真玉)打ち散らち うれ捨てのびゅんちゅ 我がカナち(私の愛しい人よ) すると娘たちの顔から笑みがこぼれ、さざめきが場に広がる。 そして、そのうちの一人が糸を繰る手をしばし停めて唄い返す。 唄のやり取りは延々と続き、静かな夜が、さらに更けていく。 水資源に乏しい高台の集落――渇きとの闘い 上晴集落は、伊仙町でも高台にあるので、これといった川や泉がなく上水道が整備されるまでは水の確保に、だいぶ苦労した。 米作りは、「天水田」(用水路がなく、雨だけに頼る田圃)でおこなわざるをえなかった。田植えの時期になると、雨が降るごとに田へ走った。そして、穴の開いた大きな石に綱を通して牛に牽かせた。これは代掻(しろか)きというよりも、水が地中に染み込まないように地固めをするといった意味合いの作業で、粘りが出るまでおこない、水漏れを少しでも防ごうとした。 そうした作業の後、ようやく鋤を入れ、田植えをおこなった。めとさんの家でも、奄美本土復帰の頃まで天水田を耕していたという。 当時の田植えは、手太鼓(チヂン)のリズムに合わせて、また、唄を掛け合いながら進めた。上晴の田植えは、他の集落に勝るとも劣らぬ華やかなものであったと、めとさんは語った。 このように水はとても大切なので、雨水をうまく利用した。屋根から流れ落ちる水を貯めるのはもちろんのこと、樹に縄を巻き、その端を桶へ垂らして水を貯めたりもした。 めとさんの家では、集落で最初に屋根をトタン葺きにした。よって、屋根から流れ落ちる水を無駄なく集めることができ、近所の人が貰いにくるほどだった。 だが、そうした節水努力をしていても、旱魃となればたちまち深刻な水不足となった。天水田に溜まった水で洗濯したり、ときには飲んだりもしたという。 したがって雨乞い行事も盛んにおこなわれた。蓑笠を着けた男たちが水源地へ赴き、「水掛け」をするなどして降雨を願うこともしばしばだった。 無医村の悲劇――4人の子どもを亡くした 戦前まで伊仙町には、3軒の医院があったが、いずれも犬田布などの海岸部にあり、上晴のような内陸部の集落からは遠かった。さらに道路も整備されておらず、急に高熱を発しても、医者を呼んだり、医院へ駆け込むといったことはできなかった。 「医者にかかるのは、死亡診断書を貰うときだけ……」と言われる環境にあって、とくに嬰児は、生き残り難かった。めとさん自身も8人の子どもを産んだが、成人したのは4人だけだった。 終戦直後に末娘を出産したが、そのときは食料不足が深刻で、めとさんも栄養不足のため、乳が出なかった。そこでナリ(蘇鉄の実)粥を作って、その汁を飲ませるなどして必死に命を繋ごうとした。 この当時、めとさんにとって忘れることのできない出来事があった。それは、この末娘に、ささやかながらも「名付け祝い」をしてやろうとした。しかし、赤子を包む布がない。 すると事情を知った近くの女性が、襦袢(じゅばん:和服の下着)の片袖をちぎって持ってきてくれたのだ。襦袢であっても、貴重な一張羅であったはずである。めとさんは、その好意に泣いた。 苦難は、これだけにとどまらなかった。なんとか成人までこぎつけた長男の戦死通知が届いたのだ。さらに時期を隔てずして一家の大黒柱である夫まで亡くなってしまった。 乳飲み子と幼い子どもたちを抱え、めとさんは、鬼神のごとく働いた。誰よりも早く野良へ出て、夜空の星を仰いで家へ戻った。ただ生き抜くためだけに……。 そのときから30年が経った。楽しかった娘時代の思い出、苦しかった数々の出来事を語った後で、めとさんは、こう締めくくり、笑顔を見せた。 「いろんなことがあったけど、幸せな人生だったよ」 激動の時代を生き抜いて ゲートボール場で童心に還り、嬉々としてスティックを振るい球を追うめとさんたちの姿を眺めていると、そこに激動の時代を生き抜いてきた人々の人生観が織り込まれているような気がする。 「私たちは、生きてきた。働き、喜び、悲しみ、笑ったり泣いたりして日々を送ってきた。手足を片時も休めることなく、全身全霊をもって明治、大正、昭和と生き抜いてきた。だから、今も身体と心が自分から動いていく。すべては、自然のままさ」 いつも通りの変わらぬ暮らしも、積み重なれば磨きがかかっていく。艶(つや)が出てくる。祖母たちの一挙一動は、名人と言われる人々の舞や踊りのようでもあり、唄うように語り交わす笑顔は、一流の舞台人にも劣らぬであろう。 60年以上の風雪に耐えた樹木は、ゴツゴツと節くれだってはいても、内から放たれる風格と気品は、見る人の心に敬意を抱かせる。 庭先で唱歌を口ずさみながら筵の上に地豆を広げ、夕方になれば愛用のスティックを手にして、仲間たちの待つゲートボール場へ駆けつける祖母たち。人生の至福を満喫しているかのような姿であるが、それは自らの手で勝ち取ってきたものだ。 かつてその手には、鍬が握られていた。また、背筋をしゃんと伸ばしてスタスタと歩く頭の上には、家族の命を支える水桶が載っていた。 いつか昔の生活に戻らざるを得なくなったとき、祖母たちは、抵抗なくスッと戻っていくことができるであろう。私たちには、はたしてそれが可能であろうか。 (元週間とくのしま新聞記者 榊原洋史・記) |