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北西部の噴火口と硫黄採掘跡
平成23年10月29日(土)
硫黄鳥島上陸記  No.4 =最終回=
米軍鳥島射撃場(沖縄県久米島町)で行われている対地射爆撃訓練について、政府が、徳之島の西方65Kmにある硫黄鳥島に移転する案を検討していることが今年5月に分かった。 久米島町議会はさっそく防衛相宛ての抗議決議を全会一致で可決した。かつては住民が暮らし、貴重な自然が残る同島への移転は、徳之島からも反対の声が上がった。 鳥島射爆撃場では、大量の劣化ウラン弾発射、250キロ爆弾投下、漁船への操業妨害など多くの事件・事故が発生している。島が消滅する恐れがあるといわれるほどの激しい射爆撃訓練である。 硫黄鳥島の周辺は好漁場で漁業などに与える経済的損失は計り知れないものがある。 現在は無人島であるが、史跡や墓地跡があり、固有の植物群落なども確認されている。 この身近な「秘境」を観光面などで活用する手立てはないものだろうか。
4回にわたり写真特集を掲載したところ、色んな情報も寄せられた。傷病治療で平土野に通院していたこと。郵便物が平土野局扱いだったこと。水源のない同島から水の補給に来ていたこと。 また、天城中学校の寺師孝則校長先生から「硫黄鳥島残影」という論文も届いた。(全文下段に掲載)



                               天城中学校 寺師孝則

 8月も下旬近いある日の夕方,ユイの館の屋上で天体観測の準備を進めていたときのことです。ふと西の水平線に目を向けると硫黄鳥島の島影がくっりりと見えています。思わず,天体望遠鏡をその方角に向けて島を観察しました。当然左右と上下が逆転した像ではありましたが,今まで見たこともない迫力ある姿の硫黄鳥島が見えたのです。私は,その一瞬天体観測のことは忘れて硫黄鳥島の姿に見入り,同時に様々な思いと情景が胸裏に浮かんできました。

 島を徳之島から見ると南端に三角形をした山があり,それから北側にかけてはやや盛り上がりのある台地となり北端は切り立った崖で海に落ちています。その姿は,まるで巨大な潜水艦が北側を向いて停泊しているようにも見えます。三角形の山は前岳と呼ばれており外輪山の一部です。前岳の麓にはグスク火山と呼ばれる三重火山があり,北端の丘陵部は硫黄岳と呼ばれる成層火山です。火山群としては,霧島火山帯の最南端に位置しトカラ列島を構成する火山列島の兄弟島でもあります。ところが,行政上の区画は沖縄県島尻郡久米島町となっています。この島は,与名間岬の真西約65kmにあり,本県最南端の与論島より遙かに北部に位置するのになぜ沖縄県に属しているのでしょうか。それには次のような経緯があります。

 関ヶ原の戦い直後の慶長14年(1609年),薩摩藩は幕府の許可を得て,琉球国に攻め入り支配下に置きます。その時薩摩藩は,琉球王朝そのものは滅ぼさずに背後から琉球国を操る体制を作ります。そうすることにより,琉球国と明国(後には清国)との朝貢貿易を維持させようとしたのでした。朝貢貿易とは,小国の王が中国皇帝から一属国の国王であることを認めてもらうお礼に品物を送る(「進貢」と言います)とその数倍の品物(「入貢」と言います)が返ってくるという形式の貿易です。属国と言ってもそれはあくまでも形式的で独立国家としての体面は保つことができました。(注1)

 この貿易は,進貢する側(琉球国)にとっては莫大な利益となりました。その利益を武力を背景にしてピンハネしようとしたのが薩摩藩であったわけです。しかし,薩摩藩は中国の属国ではありませんので薩摩藩が表に出たのでは朝貢貿易は成立しないのです。また,朝貢貿易は中国側からみると大赤字となるわけですが,中国は東アジアの盟主国だという自負(中華思想)がありますので,それぐらいの赤字は覚悟の上だったようです。さらに,周辺国を武力で制圧するために莫大な軍事費を使うよりは安上がりだという思惑もありました。

  ところで,薩摩藩の琉球侵攻を契機として与論島以北の主な島々は薩摩藩直轄領となります。ところが,琉球王国にとっては,硫黄が重要な輸出品だったために,薩摩藩は硫黄鳥島だけは琉球王国領土として残したのです。一説には硫黄島を残す代わりに与論島を割譲させたとも言われています。また,薩摩藩としては,三島硫黄島や霧島山から硫黄は十分に採集できていたのでこの島をあえて直轄地にする必要もなかったのでしょう。

  このような経緯の下で琉球王国領として明治維新を迎えた硫黄鳥島は,明治12年の廃藩置県を経て沖縄県に属することになります(注2)。硫黄は,中国への重要な輸出品としての役目は終わりましたが,この島での硫黄採掘は昭和の時代まで続けられます。硫黄が,黒色火薬や医薬品,農薬などの様々な工業製品の原料として必要とされていたからです。ある資料によると明治36年時点では,島民が約700人いたということですので驚きです。ところが,昭和34年の噴火時に大半の島民が島外に避難し,昭和42年には硫黄採掘作業員も島を離れて完全無人島になります。その背景には,石油から硫黄を精製する技術が確立されるなどの技術革新があったことは間違いありません。また,細々とした採掘では需要に追いつけないという理由もあったのでしょう。昭和42年は,日本が高度経済成長のまっただ中にあった時期です。経済成長の波はアメリカ統治下の沖縄県にも波及していたに違いありません。

 ところで,硫黄鳥島と徳之島との交流はどのようなものだったのでしょうか。終戦から昭和28年までは奄美群島も沖縄も共にアメリカの軍政下に置かれていました。この時期には,徳之島から小学校教員が硫黄鳥島に派遣されていたという話もあります。また,奄美群島が本土に復帰した昭和28年以降から無人島になるまでの期間,あるいは戦争前の様相はどうだったのでしょうか。興味は尽きませんが,記録できるものがあれば記録しておきたいというのが私の気持ちです。

 米軍統治などの制約がなかった時代は,硫黄の集積や生活物資の輸送などに関しては,平土野港が拠点だったことが十分想像されます。そのために,当時の平土野の港や町はかなり賑わっていたのかもしれません。タイムマシンがあればその場に立ってみたいぐらいの気持ちです・・・・。

  琉球の歴史上重要な役割を果たしてきた小さな火山島が目の前にあります。その役割を果たし終えた現在でも島と火山の姿だけは往古と変わらずに存在しています。この島を故郷として暮らした人々は何を思い何を感じたのかを私は少しでも知りたいと思っています。そうすることが島の歴史への恩返しだと考えているからです。

  8月のある日,硫黄鳥島の島影を眺めて胸をよぎった思いを後日まとめてみました。

注1)現在,中国が尖閣列島の領有権を主張しているのも,歴史的には,琉球王国は中   国の属国だったという見解に立っているからだと思われます。しかし,そのこを我が国が認めてしまえば,同じ論理で沖縄県全体あるいは奄美大島までも中国は自国領だと主張しかねないことになります。

注2)全国的な廃藩置県は明治4年です。しかも「藩籍奉還→廃藩置県」という一定の   けじめが付けられています。しかし,明治12年に行われた琉球での廃藩置県は藩籍奉還抜きで,一方的に「琉球処分」という形で断行されたのです。明治政府による第二の琉球侵攻(占領)と言ってもよいかもしれません。

    参考資料  「硫黄鳥島全島移住のときの島尻郡長 齋藤用之助」 

 

【写真特集】 
   
 硫黄搬出に使われた道路跡  硫黄採掘場
   
 噴火口と硫黄採掘場  噴火口の前で記念撮影
   
 北西部  場所によっては植物が全滅の所も
   
 中央部から南を眺めると魚のような岩山  犬のようにも見える
   
   これから断崖を降りて帰路へ
   
 先に断崖を降りて桟橋の先端で釣り糸を垂れる者  桟橋が満潮で消えて行く
   
 海岸の周囲には中国製のペットボトルが漂着  迎えのゴムボート(午後3時ごろ)
   
   
   
 午後5時30分夕日に染まる平土野漁港到着  クーラーボックスを手に手に綾菜丸(定員12名)を下船
   
 船長の釣った魚で反省会  片道1時間半〜2時間、島滞在時間5時間の「秘境」の旅の完

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