西犬田布当原出身の岩井正一氏(明治35年生)が9年間の長年月にわたってハンマをふるって竣工にこぎ付けた塩田も、今は塩水が溜まるだけのごく自然の岩礁にしか見えない。
塩田跡は、伊仙町当原浜の西方約1㎞の地点にあるが、秘められた汗の結晶物語も今では忘れ去られようとしている。
終戦、そして二二宣言によって本土から切り離された島は、物資交易の道はまったく断たれ、島民の生活は文字通り困窮のどん底に陥っていた。 特に食生活においては自給に追いやられ、一日も欠く事の出来ない「マシュ」(真潮、真塩、真白)は自分たちで製造しなければならなかった。
以前から当原の海岸一帯は自家製塩の場であったと古老たちは語り伝えているが、現在でも製塩所がある。 古くの製塩法は、海岸の潮溜まり海水を天日に干し、濃度を濃くしてから塩炊き鍋で炊くという原始的方法であった。
当原海岸では、犬田布は勿論のこと、崎原、河内、糸木名方面の塩炊きで賑わった。 牛馬5,6頭分の薪を運び、一週間から十日間ほども塩炊き小屋に寝泊まりして塩を炊いたという。
塩炊きじゅう、男は薪の運搬をしたが、古く狭い道を牛馬に薪を背負わせたり 「カン」(引き金具)で引かしたりした。
女は桶で潮を汲み入れるのが日課であった。 濃い塩水を溜まりから汲み集める作業も重労働であった。 凸凹の岩礁が鋭くとがっていたため、歩くだけでも気遣いが多かったからである。
正一氏は、手始めに海岸に通じる通路の段取りに取り掛かった、続いて潮汲み道の鋭い岩礁を砕く作業に移り、数年で成就させた。
(つづく)
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